ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi 神父)
2008年10月26日 ・ 年間第三十主日
福音 マタイ 22・34-40
〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
福音を顧みて
第一の掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神なる主を愛しなさい」、第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい」という福音はキリスト教の要であることを、誰もよく認知しています。現在、特に若者の間には、愛という単語がふんだんに使われていますが、しかし、主が最も重要な掟として指して下さる「愛」は、世間で意味される愛と雲泥の相違もあると言えます。と言っても、世間で言われる愛とは、もともと悪い訳では無く、却って自然に基づき、動物界の生存と調和を司り、特に男女の絆を編むもので、やはり素晴らし原力です。けれども、福音と世間で唱えられる愛は、出発点も動機も相違い、やはり雲泥の相違!前者の主語は神の心であり、後者のは人間の意志です。
世間的な愛は、必ずと言っても良い程、先ず自分に関わる利益から始まり、そして利益の範囲が広がるにつれて、愛の対象も広がるのです。例えば、若い男性が一人の女性に惹かれると、先ずその女性を愛し出し、そして彼女を通してその家族に接する様になってから、家族にも愛の心を向ける事になります。世間的な愛には、やはり何時までも自分が中心に残り、他人に対する愛といっても、自己に対する愛の延長に過ぎません。
主が仰る愛とは、「自分」と「他」の係わり合いからではなく、自分も他も生ずる泉なる御者を仰ぎ、その摂理に感謝を述べ、そして「心を尽くして」神に一切をつつましく捧げる愛です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)という福音の実施です。人が神に対して愛を尽くせば、その愛によって、神の心に内在するすべての存在と出会い、抱擁、愛を施すのです。ついに、神の心の暖かさによって固い敵意も解かされ、如何なる存在は私と関わり合う「兄弟・姉妹・友」と見えて来ます。神の愛においては、一人一人の意見は多色性ある素晴らしいモザイクをなし、一人一人の声はコーラスを奏でさせてくれます。愛は個性ある全てを一つに戻し、また一つを全てに注ぐのです。
逆に、神に対する愛からではなく、現世に対する愛から愛の道に就くとすれば、神に対する愛を示す行事を執り行う時も、実は自分の利害を考えての愛の儀式に過ぎません「苦しい時の神頼み!」。
神を愛するところから、現世を愛する心も湧きます。「これがもっとも重要な第一の掟である」と。私達が現世の愛を優先して、神を自分の愛の地平線に閉じ込めば、愛も窒息してしまいます。マザーテレサは神に対する広い愛の内に皆も自分も愛していました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」!
分かち合い
澄みぬけた秋空の気持良いこの頃。あくまでも冴えきって澄み渡った空を見ていると、真珠を思い出します。日本の真珠は世界一とされています。又日本人が1番愛する宝石が真珠ではないでしょうか。そして私達にとったら大きな価値を持った真珠は海の深みに隠れて埋れているのかも知れません。真珠を漁りに行く人の様に、探し求める魂は尽きる事なく深く潜って探し求めるでしょう。そして、阿古屋貝からは苦しみを乗り越えて、美しい真珠が生まれます。私達にも信仰こそが隠されている宝に会わしてくれるのではないでしょうか。 澄玲
今週の福音
26 (日) マタイ 22・34-40
27 (月) ルカ 13・10-17
28 (火) ルカ 6・12-19
29 (水) ルカ 13・22-30
30 (木) ルカ 13・31-35
31 (金) ルカ 14・ 1- 6
1 (土) マタイ5・ 1-12a
2 (日) ヨハネ 6・37-40
アンブロージョ典礼の由緒 (第一)
来る11月15日(土)をもって、ミラノ教区においては新版アンブロージョ典礼が発足します。「典礼」という語彙から推察できるように、「新版アンブロージョ典礼」とはミラノ教会の初代司教聖アンブロージョにさかのぼる祈りやミサの典礼の刷新を意味します。昔は、現在4百万人の信者数を抱えるミラノ教区は南スイスのルガノ教区も、また他の周囲の教区も含めていたので、主の遺産の大きな分け前を占めていました。長い歴史に沿って夥しい聖者を生んだミラノ教会は紀元374年12月7日に聖アンブロージョを司教として授かりました。当時、彼はまだ若い求道者であったが、ミラノの信者達が「アンブロージョは司教」と一斉に叫んで、彼に教会の指導を委託しました。青年アンブロージョは、先ず受洗し、続いて司教に叙階され、ローマ帝国崩壊の難しい時代にあっては、強くて明るくミラノの教会を形作りました。乱れた政治の暗い傘の下にあって挫折しやすい市民には福音に基づいた新社会制度の希望を育てるために、ミサ聖祭に集う信者達に自筆の聖歌を唱えさせたりして、教会のミサの雰囲気を新社会の出発転にしました。これこそ、アンブロージョ典礼の由緒です。アンブロージョの時代は、北からローマ帝国に迫る野蛮民に対しての防備を施すために、ローマからミラノに遷都されて、ミラノは広い帝国の一番賑わう都市になったのです。言うまでも無く、帝国の辺鄙な一州であったエルサレムと首都ミラノとの関係は深く、ミラノとエルサレム教会の間に友情的なつながりが生まれました。結果は、アンブロージョ典礼と東方教会の典礼の間に、類似点は驚くほどに多いです。両方の教会にミサ中の平和挨拶が御言葉の締めくくりとして行われているのは、その一例です(ミラノの教会のミサ聖祭には、福音の朗読と説教の直後にアンブロージョ典礼の独特な「朗読後の祈願」が唱えられ、次いでに平和挨拶の交換が行われます。そして、奉納を執り行ってから、信仰信条が唱えられます)。
アンブロージョ司教はローマの教皇と尊敬と友誼の深い関係を保ってはいましたが、主の葡萄園の一分け前であるミラノ教会の特性を生かすのは、主の創造性を称えることだと確信して、未だにミラノ教会を支える典礼の基本を定めておきました。「私がすべてにおいて、ローマの教会に従っても、主から委託されたミラノ教会民の心をないがしろにしません」とアンブロージョ司教が証言しています〔秘跡について、III,5〕。世界中の教会にとっては、地元の心を大事にする立派な模範ですね。 続き
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