ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi 神父)
2008年12月7日:ミラノ聖アンブロージョ典礼・待降節第四主日
福音 ルカ19・28-38
エルサレムに迎えられる イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるべトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ子ろばをほどくのか」と言った。二人は「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをおのせした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように、天には平和、いと高きところには栄光。」
福音を顧みて
イエスが十字架を受けるために驢馬に乗ってエルサレムに入場なさる話は、どちらかと言うと、イエスの誕生を待つ待降節の今頃より、イエスの受難を記念する四旬節にふさわしい福音の一ページではないでないかと当然の様に思われます。実は、アンブロージョの典礼に従うミラノ教会を除けば、そのページは正にイエスの受難を記念する復活祭の前の日曜日に読まれ、その日曜日には十字架を迎えるためにエルサレムに入場なさる主を同伴する為に、私達はやしとオリーブの枝を振るいながら行列を行います。結局、毎年の春の初めに来る「枝の主日」の事です。
馬小屋に生まれた主は、死を迎える旅を成し遂げる時も、驢馬に乗ってエルサレムにお入りになりました。主の働きを支える為に大役を果たす動物の中では、謙遜な驢馬は主人公です。家族を養う為に屠られる子羊も主の使命を演じるもう一つの主人公で、「神の子羊・・・」と主を呼んで私達は祈ります。やはり、待降節の真の意義にあやかる為には、大自然が静かに示してくれる生き方をじっと見習わなければなりません。大自然の汚染化の現象が著しいこの頃、大自然を守る事は地上に神が生まれる、いわば「神の託身」の実現です。
驢馬に乗ってエルサレムに入場なさる主の光景は神の託身の道を証してくれます。神は全能であるゆえに、神の心は柔和です。ひいて、信仰強い人の心も謙遜で柔和です。「悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1・15)とは、主が真っ先に人々に呼びかけられたお言葉ですが、先ず「悔い改めて」、次に「福音を信じなさい」と忠告して下さるところに注意しましょう。心を改めるとは、自分の古い考え方の檻を破り、無限の自由に自分をさらす事です。無限に心を向ければ、神と出会います。そして、その出会いは「福音」、すなわち「良き訪れ」でしょう。それと違って、自分で自分を制御し、自力で自分を修正しようとすれば、どこも周りに抱っこして下さる神の広い愛を覚えられません。光線を覚えない林檎が甘く実れないように、私達の心も神の愛を覚えずには優しい人間味に熟しないでしょう。濡れたひよこは、片隅にしゃがんで光線をじっと浴びるように、私達も心をキリストにさらしましょう。真の信仰は神の輝きを眺める体験から湧くことを前提と認めても、生まれ付きで私達に絡みついている限界と矛盾も聖なる貢献を遂げています。そうです!罪まで及ぶ自分の弱さの体験は、信じる私に謙遜さを教えてくれます。檻の生活を体験した囚人こそ、真心を持って自由に憧れるではないでしょうか。事実、人間が痛感する自分の限界による檻は、自由に憧れる心を起してくれる故に、私達一人一人を良き牧者の元に導く掛け替えのない動機だと言えます。それこそ、主を乗せて私たちの心に「入場」させてくれる、あの謙遜な驢馬ではないでしょうか。
・
分かち合い
Festum Immaculatae Conceptionis B. Mariae V.
12月8日 聖母無原罪の御宿り
神様はマリア様の霊魂を創造したその瞬間から原罪の汚れを除き去り、全く罪なき清い状態でその母アンナ様の御胎内に身ごもらせられました。これが「聖母無原罪の御孕り」の由来です。
この様にマリア様は始めから原罪というものがなかったので、常に聖寵に満ちた天の御父の愛子でした。「年齢と共に智慧も聖寵も次第に増し給えり」とは、ただイエス様の事ばかりではなく、その御母マリア様についても言う事が出来ます。マリア様は罪と名のつくものは、どんな小罪も犯した事がありませんでした。そしてマリア様の全ての行いは善であり完全でした。そしてマリア様は日に日に聖となり、天国の為の功徳を増し、イエス様のお母様としての身分に相応しい高徳を積み、今は天の元后と仰がれて、マリア様を慕う人達の為に力ある保護者となっておられます。
天の元后、聖マリア、聖寵に満たされた貴女を賛美します。貴女は今も必要があれば、私達の元にその御姿をお現し下さり、御救い下さいます。弱い私達の為に今もいつも世々に到るまで、私達にその御憐れみを御注ぎ下さいます様に、アーメン
マリア様は私達全てのお母様です。そして今回コメントを下さった松本吉子様は、母親としてのその惜しみない愛情をお寄せ下さいました。障害は恥ずかしい事ではなく個性なのです。偏見から守る事は隠す事ではなく知って貰う事なのです。分かち合って下さい。澄玲
今週の福音
7 (日) ル カ19・28-38
8 (月) ル カ 1・26-38
9 (火) マタイ 19・23-30
10 (水) マタイ 21・10-17
11 (木) マタイ 21・18-22
12 (金) マタイ 21・23-27
13 (土) マタイ 21・28-32
14 (日) ヨハネ 1・19-28
ミラノ日本人カトリック教会における降誕 祭(クリスマス)
12月18日(木)午後から晩にかけて、教会堂の中にPresepioを作ります。
12月19日(金)19.00-21.00 教会で黙想会を行います
12月21日(日)11.00 待降節だい6日曜日の御ミサ
17.30 私たちの教会堂でミラノ滞在若い日本人歌手のクリスマス演奏
会(プログラム掲載は次週報)
12月24日(水)(クリスマス)前夜)教会で 20,30黙想・許しの秘跡、21,30クリスマ
ス歌ミサ・祝い
12月25日(木)(クリスマス)15,00-19.00: 教会堂のPresepio巡礼・鑑賞 (入場自
由)
12月26日(金)10.00-12.30; 15.00-19.00 仝 仝 仝
「奇跡の大逆転劇が今始まる。」とは、健一郎君の歌の一節です。健一郎君は誰でしょう。以下の文章は息子さんが歩んだ道筋を描いてくださる健一郎君のお母さんの物語です。誰も感激せざるを得ない証言です。追加文は作詞者・松本健一郎君の作文です。
周りの愛に抱かれた一人の障害を持った人の旅は、キリストの優しさを私達に表す一条の光です。健一郎君、有難う!お母さん、ボランティアの方、有難う!ルチアーノ神父
古谷野さんと出会って
古谷野さんとの出会いは、聖霊刷新の黙想会での事です。お席が隣同士になったご縁で、とても話しやすい方だと感じ、いろいろなお話しをしました。イタリアで音楽の先生をされていたと言う稀有な経歴の持ち主である事、人間的な魅力に引き込まれ、子供の話、世相の話、音楽の話、音楽を生かしたボランティア活動のお話、その中で、息子健一郎にぜひ見せたいと言うギター合奏団のお話が、私を引きつけました。息子は、中度の知的障害をもっています。出産時の酸欠が原因の新生児痙攣による脳障害に加え、乳幼児の頃、知的障害を伴うてんかん発作に苦しみました。見た目には、静かで、障害が分かりにくいこともあり、学校は、先生方の反対を押し切り、現学級でおし通しました。今思えば、残酷な事をしたと思います。ひどいいじめにも、たびたびあいましたが、先生方がよく守ってくださいました。物事をすぐに忘れてしまい、あひるが、ひよこが何匹でと、毎日教え込んだ苦しい日々が、思い出されます。
その子が、詩を書いているのです。16歳の頃からノートに書きとめていたらしく、私が知ったのは、17歳にもなった頃でした。私は、今までの勉強の無駄な努力はなんだったのかと思いました。こんな事を感じ、こんな事を思っていたのか・・・あまり話をしない子、無口な子として見ていましたから、私の驚きは如何ばかりか、呆然と立ち尽くしたのを覚えています。
今度は、「読んで読んで」とせがまれ、「はいはい」と言いつつも、少々気持ちが乗らなくて、「後で読ませてね」とやっているうちに、物足りなかったのか、教会のミサのあと、皆さんに見て見てと自分から、相手の目の前に差し出しているのです。皆さん、だされて読まないわけにはいきません。親切にも優しく読んで「へえー!」とか「こんな事考えてたの!」と感嘆してくださって、いつも一人だった健一郎が人の輪の中に居るのです。今までは、教会の方たちも、どういう風に接していいのか分からない様でしたし、たまに、声をかけていただいても、健一郎は、「ああ」と言うだけでしたから、私は目を疑いました。それは私を離れて詩を通して人と関わることを知った我が子の姿でした。彼の詩は、コミュニケーションの手段です。一方通行の話が多い中で、詩を通して相手の反応を感じ、また自分の思いも伝える素晴らしい方法を、神様がくださいました。彼は、明るくなりました。神様に感謝します。そして、900にも及ぶ詩ができ、とうとう1冊の本にまとめました。5歳の頃から、絵を習っていましたので、その頃からの絵とあわせて、「あの空を見上げて」という、詩の題名を、タイトルにした詩集が出来上がりました。
そして、その詩に曲をつけたらいいねと奨められて、ギターを習い始めたわけですが、この道筋を古谷野さんがつけてくださったのです。長年、養護教育に携わられ、退官後も、家にこもりがちな子供たちのために、ギター演奏を教え、コスモス21なる楽団を編成し、本格オペラ曲を歌い、演奏させて下さっている平野寛子先生をご紹介いただいたのです。ボランティアセンターでの演奏が、感動的で涙が出ました。
ボランティアさん、親御さんたちのピアノ、ギター、マンドリン、マリンバの伴奏の助けを借りて、カルメン前奏曲を演奏します。先日の11月22日には、兵庫県で一番大きな芸術文化センターで行われた障害者音楽祭に初出場して、特別賞に輝きました。何にも弾けない息子のギターでも、大きな花を持たせてくださるのです。息子の一言、「こんなんでいいの?」には、先生も大笑いです。本当に、古谷野さんに、平野先生に、神様に感謝します。
彼は、今 神父様のご好意で、奈良市にある老人ホームで、洗濯場のお手伝いと食器洗いの仕事をさせていただいています。顔つきも、穏やかになり、安心して送り出せるようになりました。
また、私は、ジャン・バニエを知り、信仰に根ざしたラルシュと言う知的障害者のグループホーム作りの活動をしています。奈良レインボーコミュニティといいます。先日の11月24日には、売布にある御受難会修道院でのもみじ祭りで、静岡にある日本で唯一の「ラルシュ・かなの家」の手作り石鹸を販売させていただきました。知的障害者が作る質の高い、手に優しい石鹸です。その販売をとうして、ラルシュを皆さんに、知って頂きたいのです。すぐに活動に、反映する事ではありませんが、地道に続けていこうと思っています。松本吉子
奇跡の大逆転劇」
作詞 松本健一郎
僕らはいつも実力を出す前に逆転されて。
もうどうしようもない所まで追い詰められて。
チャンスをもらっても追いつけなくて。
気合いを入れてがんばった所でもう遅くて。
いつまでたっても完敗の毎日。
「何とかなるさ」じゃダメかな?
だったら自分の力を信じて何とかすれば良いじゃない。
長い人生泣く事も時には必要だよ。
「もうダメだ」と諦める前にもう少しもがいてみてよ。
きっといい結果に繋がるはずだから。
暑過ぎたあの夏の悲劇。
今日は僕らの晴れ舞台。
奇跡の大逆転劇が今始まる。
いろんな人の応援を力に変えるよ。
皆の期待に応えられない時もあるかも知れないけど。
僕らが目指す頂上は果てしなく遠い。
でも僕らが走る先にはいつも君が待っているから。
勝利の女神はいつも遠くで微笑んでいるから。
あの夏に僕らが流した汗は誰よりも輝いてたな。
今年もきっと忘れられない夏になる。
そしていつの日かまた頂上を目指すよ。
Nessun tag per questo post.